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正道空手と芦原空手の違いは?石井館長が芦原会館から離れた訳とは?

正道会館

石井和義正道会館館長はご存知の方も多いと思いますが、元々は極真会館芦原道場でした。

16歳で芦原道場に入門し芦原会館とほぼ同時期の1981年に正道会館を設立しています。

芦原会館が誕生したのは1980年9月ですから、石井館長は約11年芦原道場に所属していたことになります。

しかし、先代の芦原館長から指導を受けたのは約3年ほどだったみたいです。

石井館長が高校を卒業し、進学しようとした頃に先代館長から関西に極真会館芦原道場関西支部を作るという使命を受けて大阪に渡ったからなんですね。

その後は、四国に帰ったときと審査で大阪に来たときぐらいしか指導はされてないと思いますが、多くのことを先代館長から学んだことでしょう。

関西で空手道場を出すのは並大抵のことでは無かったと思います。

また最初に支部を出したのが、旧大阪球場(難波球場、現在のなんばパークス)の施設というところからして敏腕プロモーターとしての片鱗が見えていたのかもしれません。

多分普通は借りれないようなところに空手の道場を出したんですね。

もっと凄いのは、はじめは正道館と言っていた正道会館の第一回ノックダウンオープントーナメント空手道選手権大会を開催したことです。

独立してたった1年で全日本大会を開ける空手流派がどこにあるんでしょうか?

しかも大阪府立体育会館で観客席が満員ですからね!

これは本当に驚くばかりです。

またそこから中山猛夫という伝説ともいえるスターも生み出しました。

その当時の石井館長の弟子たちは常勝軍団と言われるほど、他流派の大会も総ナメにしていましたからね。

空手の指導センスも弟子たちを引きつけたということです。

空手の指導力にも定評がありますが、商才も素晴らしかったと思います。

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石井和義の空手

石井館長は本当に一人で弟子を連れずに芦原会館から離れました。

独立した当初は、ほとんど芦原空手でした。

それは正道館の技術ビデオに現れています。

石井館長の指導力は本当に素晴らしく、私も何度もユーチューブでみましたが元々の空手センスに加え、自分が理解マスターした技術を教える時にわかりやすい表現に直して指導しています。

空手指導者にありがちな「バーン」「ドーン」「バチーン」というような擬音をあまり使わず、理論的に分かりやすく指導しています。

多分習った人は「この先生の言うことは間違いない」と思ったのではないでしょうか?

しかし、独立してから次第に芦原先代館長の代名詞とも言える「サバキ」の技術を否定し始めました。

そして「K-1」を作りました。

「サバキ」の技術では相手を倒すところまではできないと考えたということですが、それは袂を分かつ事になった先代館長へのアテツケもあったのではと思います。

何かで読んだのですが、「石井館長は極真に戻りたがっていた」と書かれていましたが定かではありません。

芦原英幸氏が極真会館を抜ける三ヶ月前に、石井館長は芦原道場を退会しています。

自分の理想とするカラテを実現するために独立したのか?もしくは芦原先代館長に愛想をつかすして辞めたのか?

私はそのどちらもあると思っています。

石井館長の自伝を読むと、やはり「お金にまつわる芦原館長の仕打ち」だという感じで書かれていました。

また、面白いことに佐竹雅昭氏が正道会館を辞めるときも「石井館長のお金にまつわる仕打ち」のような表現で書かれていました。

遡ると、芦原館長も大山総裁から似たようなことをされています。

そのことについて書いた記事はこちら。

芦原英幸、石井和義、佐竹雅昭 それぞれの自伝を読んで思うこと

話が反れてしまいましたが、石井館長はやはり殴り合いで明確に倒せる技術を目指したのではと思います。

昔の芦原出身の人間は「サバキ」の技術ができなかったからだ!と言っていたそうですが、私はそんなことはないと思います。

石井館長からサバキの技術を教えて貰って、サバキ系のカラテとして独立した流派も結構ありますからね。

私としては、石井館長にフルコンルールで活かせるサバキの技術を追求して欲しかったですね。

円心会館の「サバキチャレンジ」のようなルールもありますが、その前に石井館長は「カラテで飯を食う」ということを前提に「カラテで成功する」を考えたのでしょう。

それで「K-1」が誕生したんだと思います。

カラテで強い人間がメジャーになって、夢を与えられる側に回ることはできないのかと頭をひねったんだと思います。

独立からわずか1年で全日本大会を大阪府立体育会館で開くどころか、満員にしたぐらいですからビジネスのセンスも相当なものだったのでしょう。

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夢を与えた

石井館長は、カラテを始めとする格闘技をやっている人間に夢を与えたと思います。

現在、「新生K-1」と銘打ってK-1は生まれ変わりましたが、昔のK-1を観て今K-1の選手になっている選手も少なくないと思います。

そう思うと、一つの町道場の空手青年にジャパニーズ・ドリームを未だに与えていることになります。

まだ生まれ変わったばかりのK-1は昔のような規模になるのはもう少し時間はかかると思いますが、着実に大きくなりはじめています。

芦原会館が極真から独立した当時は「空手バカ一代」の影響で大阪の道場には門下生が入りきれなかったといいます。

クラスを幾つもに分けて指導していたそうで、月会費も相当なものだったようです。

何百万もの現金を先代館長が毎月取りに来ていたようですが、石井館長の月給はほとんど変わらず家賃を払ったら飯を食うのがやっとという感じだったと書かれています。

本当に苦しかったと書かれていましたね。

そんな空手ブームを実感したからゆえの発想かもしれませんね。

そこから世間に一代格闘技ブームを興したわけですから、ビジネスセンスは芦原館長以上ではなかったのではないでしょうか?

また、20代半ばの青年があそこまでの大きな規模の大会を開いたり、いろんな空手団体と繋がったり、K-1を興したり出来たのは強力な支援者が少なからずいたものと推測されます。

その辺の裏の事情は分かりませんが、現在も正道会館宗師として指導されていますので教えてもらいたい方は正道会館に入って一日も早く黒帯になって下さい。

とにかく、正道館として独立した時には中山猛夫氏をはじめてとする相当な数の門下生がついてきたのも指導力の成せる技だったのでしょう。

でなければ、あのような規模の空手大会は出来ませんからね。

芦原先代館長がご存命であったら、何かしら変わっていたのではないかと思うのは私だけではないでしょう。

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